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  <title>プロ野球読売ジャイアンツ選手名鑑</title>
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  <description>読売ジャイアンツの選手プロフィール球団の情報</description>
  <lastBuildDate>Sat, 20 Mar 2010 14:58:17 GMT</lastBuildDate>
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    <item>
    <title>球団概要</title>
    <description>
    <![CDATA[読売ジャイアンツ（よみうりジャイアンツ、Yomiuri Giants,読売巨人軍）は、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。東京都を保護地域とし、都内文京区にある東京ドームを専用球場（本拠地）としている。また、二軍（イースタン・リーグ所属）の本拠地は神奈川県川崎市多摩区にある読売ジャイアンツ球場である。<br />
日本に現存する中で最も歴史の長いプロ野球球団である。親会社は読売新聞グループ本社。運営法人の商号は「株式会社読売巨人軍」である。 <br />
<br />
<div>ジャイアンツの運営会社は複雑な変遷を辿っている。</div>
<div>1934年に大日本東京野球倶楽部が発足したとき、読売新聞は大いにバックアップを行ったが実際の出資額は僅少で、あくまで正力松太郎の関係による独立企業であった（因みに筆頭株主は京成電鉄。東芝、阪神電気鉄道、東京急行電鉄、吉本興業がこれに続いていた）。</div>
<div>1947年2月、読売新聞社が全株式を買収し、完全に系列下。球団旗の右肩に「讀賣」の二文字が入り、社名を「大日本東京野球倶楽部」から「読売興業」に改めたが、1950年1月に「読売巨人軍」（第1期）として分離。しかし僅か1年2ヶ月で読売興業に吸収されている。1963年、読売新聞は九州に進出するに当たり、読売興業に読売会館（当時の有楽町そごう[現ビックカメラ有楽町店]や当時の読売新聞東京本社ビル[現プランタン銀座]の保有・管理会社）を合併させ、読売興業内に事業本部としての「読売新聞西部本社」を設けた。先が見えない九州での新聞事業の赤字をプロ野球興業と不動産の収入で補填するとの意図であったが、この結果読売興業はプロ野球、不動産、新聞の3事業を抱えるコングロマリット（複合型企業）となった。</div>
<div>1988年には経営不振の中部読売新聞社から東海地方での新聞事業を受け継ぎ、「読売新聞中部本社」としている。2002年7月の読売新聞グループの再編により、「よみうり」（1992年6月に読売興業から改称）は新聞事業を読売新聞東京本社中部支社（中部本社が読売新聞社改め読売新聞東京本社に吸収）と読売新聞西部本社に分割してプロ野球専業となり「読売巨人軍」（第2期）の社名が復活した。これに伴いビジター用ユニフォームの胸マークも「TOKYO」から「YOMIURI」に変更となった（2004年まで使用）。</div>
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    </description>
    <category>球団概要</category>
    <link>http://yomiurigiants.blog.shinobi.jp/%E7%90%83%E5%9B%A3%E6%A6%82%E8%A6%81/%E7%90%83%E5%9B%A3%E6%A6%82%E8%A6%81</link>
    <pubDate>Sat, 20 Mar 2010 14:58:17 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>越智大祐</title>
    <description>
    <![CDATA[<font size="3"><strong>越智大祐について</strong></font><br />
越智大祐（おちだいすけ）<br />
1983年6月30日生まれ。<br />
愛媛県越智郡菊間町（現今治市）出身のプロ野球選手。<br />
読売ジャイアンツ所属の投手。<br />
<br />
<a href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465" target="_blank"><img width="150" height="150" border="0" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/ochi_daisuke/ochi_daisuke.jpg" alt="越智大祐画像" /></a><br />
<br />
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<br />
<font size="3"><strong>越智大祐プロ入り前</strong></font><br />
菊間中学校では捕手だったが、新田高等学校時代に正捕手争いに敗れて投手に転向。卒業後に早稲田大学人間科学部へ進学。 早稲田大学では和田毅（現福岡ソフトバンク）や清水大輔（現JR東日本マネージャー）に次ぐ二番手投手として、1年春から2年秋まで無傷の11連勝、早大野球部史上初の東京六大学リーグ4連覇に貢献した。<br />
3年の時には一時調子を落としたが4年になって復調し、秋に防御率1.01で最優秀防御率賞を受賞。大学時代の通算成績は15勝5敗。<br />
2005年の大学・社会人ドラフトで巨人から4巡目指名され巨人に入団。<br />
<br />
<font size="3"><strong>越智大祐プロ入り後</strong></font><br />
<strong>2006年</strong><br />
ルーキーイヤーは、開幕を2軍で迎え、1度も1軍に昇格することなくシーズンを終える。<br />
<br />
<strong>2007年</strong><br />
シーズン序盤、二軍投手コーチである小谷正勝のアドバイスから投球のポイントを掴み、6月15日の登板で結果を残して以降投球が安定し、150km/hを越える速球を武器に好投。<br />
イースタンリーグでは主にリリーフで22試合41イニングに登板し、3勝1敗防御率3.07、44個の三振を奪い飛躍。また、この年の北京プレ五輪代表一時登録候補にも名を連ねたが、故障のため辞退している。<br />
<br />
<strong>2008年</strong><br />
開幕1軍入りを決め、3月28日、神宮球場で行われたヤクルトとの開幕戦で中継ぎとしてプロ入り初登板。制球に難があり打ち込まれる場面が多く4月18日に2軍落ちするも、5月4日に再登録される。<br />
最初は敗戦処理での登板が主だったが、徐々に制球が良くなり、防御率も改善。大事な場面を任されるようになり、7月25日、東京ドームで行われたヤクルト戦でプロ初勝利を挙げる。その後も同じくこの年飛躍した山口鉄也と共に中継ぎの柱を担った。 最終的にはチーム最多の68試合に登板。奪三振は71イニングで101に達した。一方で暴投も15を記録し、セ・リーグ最多となった。<br />
11月9日、日本シリーズ第7戦で、日本一まであとアウト6つと迫った1点リードの8回に登板するも、片岡易之への死球を機に自滅し同点を許したが、抑え投手マーク・クルーンの信頼の薄さから続投、さらに逆転を許して敗戦投手となったが、一介の無名投手から、「越智大祐と心中したのだから間違いは無い」（原辰徳監督のコメント）と言わしめる投手へと名をあげた1年となった。年俸大幅アップを勝ち取り、背番号も「62」から「22」に変更された。 <br />
<br />
<strong>2009年</strong><br />
自主トレでの投げ込み過多から一時は肘痛を発したが、無事にオープン戦開幕を迎える。原監督の構想では、前年フル回転した越智大祐と山口鉄也の前年の疲労を抜き、セットアッパーとして自立することを目的とし、8回を越智大祐と山口鉄也でローテーション起用、7回と9回を新加入のマイケル中村とクルーン、もしくは豊田や藤田らを併用させる予定。<br />
<br />
<font size="3"><strong>越智大祐のプレースタイル</strong></font><br />
前足を大きく前に踏み込む二段モーション気味のダイナミックなフォームが特徴。制球は荒削りながら、最高球速150km/hを超えるストレートが武器、 MAXは155km/h。典型的な「荒れ球」投手で、非常に高い三振奪取能力（2008年の奪三振率は、藤川球児を越えている）があるが、暴投も非常に多い。特に低めの制球が課題で、キャッチャーに低めのストレートなどを要求され、棒球を打たれるケースが多い。<br />
2008年シーズンの序盤はこの制球難により打ち込まれることが多かったものの、中盤からは投球が安定し、常時 140後半 - 150前半km/hの直球と、落差が大きく更に球速が140km/hを超える高速フォークボールを中心に、時折スライダー・カーブを混ぜるという投球スタイルを確立した。鹿取義隆は「投げる瞬間にだけ力を入れる疲労がたまりにくい理想的なフォーム」と評している。また、阪神の赤星憲広は「直球とフォークの腕の振りがまったく同じなので区別がつきにくい」と評してる。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>越智大祐エピソード</strong></font><br />
コーヒーにガムシロップを三個入れる・練乳だけでも飲める等、自他共に認める甘党という。<br />
大学での単位数の不足から2006年3月での卒業が不可能であったために、巨人に入団後も大学に籍を置き、寮から通学していた。<br />
週刊ベースボール2008年9月8日号のインタビューでは、「上原さんの制球力とクルーンのスピードを併せ持つピッチャーになりたい」という目標を語る。<br />
同期で同じく2008年に飛躍した山口鉄也とプライベートでも仲が良く、練習でもパートナーを組むことが多い。なおスポーツ報知で山口とのコンビ名を募集され、2009年1月29日に「風神雷神」と決定された。なお越智大祐は「雷電フォーク」で打者をねじ伏せる「雷神」という設定である。<br />
フル回転を強いられた2008年シーズン終了後の疲労感に関して、シーズン終了直後「肩がおじいちゃんみたい」と語っている。 愛犬のジャックラッセルテリア、「大吉」を大変可愛がっており、プロ野球ai(日刊スポーツ出版社)2009年3月号では日本シリーズ敗戦後に大吉に慰められた経験などを語った。]]>
    </description>
    <category>越智大祐</category>
    <link>http://yomiurigiants.blog.shinobi.jp/%E8%B6%8A%E6%99%BA%E5%A4%A7%E7%A5%90/%E8%B6%8A%E6%99%BA%E5%A4%A7%E7%A5%90</link>
    <pubDate>Wed, 16 Sep 2009 15:13:11 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>内海哲也</title>
    <description>
    <![CDATA[<font size="3"><strong>内海哲也について</strong></font><br />
内海哲也（うつみてつや）<br />
1982年4月29日生まれ。<br />
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手（投手）。<br />
<br />
<a href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465" target="_blank"><img width="150" height="150" border="0" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/utsumi_tetsuya/utsumi_tetsuya.jpg" alt="内海哲也画像" /></a><br />
<br />
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<br />
<font size="3"><strong>内海哲也プロ入り前</strong></font><br />
敦賀気比高ではエースとして活躍し、本格派左腕として注目された。高校時代は、田中良平、森大輔とともに「北陸三羽ガラス」と呼ばれた。<br />
高2秋（1999年）の北信越大会で優勝、明治神宮野球大会でも準優勝を飾り、翌年のセンバツ出場を確実としていたが、後に同校部員の仲澤忠厚が起こした不祥事が明るみとなり出場を辞退。<br />
高3夏の予選では県大会決勝で敗れ、甲子園出場は果たせなかった。<br />
当時は阪神のスカウトに「高校生では打てない」と評された大きなカーブが決め球で、MAX144km/hの速球とのコンビネーションで14個を超える奪三振率を誇り、「北陸のドクターK」の異名を取った。<br />
2000年ドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブが1位指名したが、本人は祖父・五十雄が元巨人野手だったこともあり、ドラフト前から巨人以外の指名は拒否という姿勢を貫き、東京ガスに進んだ。社会人時代は香月良太、森大輔とともに「三羽ガラス」と呼ばれていた。<br />
2003年ドラフト会議にて自由獲得枠で巨人に入団。背番号は祖父と同じ26に決まった。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>内海哲也</strong></font><font size="3"><strong>プロ入り後</strong></font><br />
<strong>2004年</strong><br />
ルーキーイヤーは二軍で9勝を上げ、イースタン・リーグ最優秀防御率のタイトルを獲得。勝ち星こそつかなかったが、1軍初先発も経験した。  <br />
<br />
<strong>2005年</strong><br />
林昌範などと競い開幕ローテーションを勝ち取り、4月だけでプロ初勝利を含む3勝を上げるが、1軍では通用せず。防御率5点台、4勝9敗。勝敗は打線の援護に左右され、6月以降は1勝もできず。 <br />
<br />
<strong>2006年</strong><br />
開幕1軍入りを果たせなかったものの、4月に高橋尚成が負傷により戦線離脱したことで代役として昇格するとリリーフで結果を残し、そのまま先発に定着。<br />
スライダーを習得して飛躍の年となり、初完投勝利・初完封勝利なども記録するなど、チームトップの12勝（13敗）をマーク。オールスターや日米野球にも出場した。<br />
リーグ3位の奪三振を記録したが、暴投が多く、リーグ最多の9暴投を記録したうえ、左打者に対する被打率が悪いという課題を残した。 <br />
<br />
<strong>2007年</strong><br />
上原浩治の出遅れで初めて開幕投手を務め、見事勝利をおさめる。その後も安定した活躍を続け、9月25日の対中日戦では自己最多の14勝目をマーク。<br />
また、セントラル・リーグ優勝を決めた10月2日の対ヤクルト戦の先発投手でもあった（マジックナンバー1で迎えたこの試合を任されるなど、彼への首脳陣の期待や信頼が伺える）。初タイトルとなる最多奪三振を獲得。 <br />
<br />
<strong>2008年</strong><br />
春季キャンプでわき腹を痛めたことでオープン戦前半を欠場。開幕投手も高橋に譲るが、ローテーションの軸として1年間活躍し12勝8敗でシーズンを終了した。<br />
しかし、打線の援護に恵まれない一方で、エラーから自滅するシーンや、突然四球を連発し途中降板するシーンも目立ち、四球68はセ・リーグワーストを記録した（日本シリーズでも第3戦と第7戦に先発し、第3戦では5回3失点（勝利投手）、6回1失点と好投したものの四球を連発し途中降板している）。<br />
阪神戦には相性がよく、シーズン最後の3試合すべてに先発し勝利を納め、チームの連覇（メークレジェンド）に貢献したが、前年4勝1敗と得意としていた中日戦もこの年は0勝5敗と相性が悪く、苦しい1年となった。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>内海哲也のプレースタイル</strong></font><br />
球種はストレート、カーブ、チェンジアップ、スライダー、シュート。ストレートの最高球速は148km。2008年はわき腹を痛めた後遺症、ここ数年の投手不足とセス・グライシンガーの入団にあわせた中5日登板の負担も重なってか平均130キロ台後半。 投球テンポが早いことも特徴である。2007年7月27日の対広島戦では2時間11分で完封勝利を挙げた。<br />
独特の投球フォームはアストロ球団のエース宇野球一に酷似している。<br />
投球スタイルは高校時代から大きくモデルチェンジしている。高校時代は全身を大きく撓らせ、トルネード投法気味の捻りを加えた、豪快かつしなやかなフォームだった。<br />
しかし余りにもフォームが大き過ぎるために盗塁され易いと、社会人時代に小さなフォームに矯正されている。また当時の球種はストレートと山なりのカーブくらいしかなかったため、社会人時代・プロ入り当初は伸び悩んだ。<br />
プロ入り2年目、前監督堀内恒夫にローテーション起用されるも、1軍では通用せず。<br />
しかしこの年シーズンを通し小谷2軍投手コーチと再三の再調整・フォーム固めを行い、高橋一三二軍監督(当時)から現在の決め球のチェンジアップを伝授されたことが、現在の投球フォーム・投球スタイルを確立する下地となった。<br />
さらにシーズン終了後にスライダーを習得、新たに就任した尾花投手総合コーチに微細な投球の指導を受け、ストレートの威力が150km/h近くまで増加、ようやくブレイクにつながった。  <br />
<br />
<font size="3"><strong>内海哲也のエピソード</strong></font><br />
2006年春季キャンプ中の2月14日、サンマリンスタジアム宮崎で原辰徳監督、近藤昭仁ヘッドコーチが、臨時コーチとして来訪している巨人OB会副会長の広岡達朗、金田正一とベンチ前で談笑していた時、たまたま通り掛かった内海哲也に対して原が「この人、誰か知っているか?」と尋ねると、内海哲也は「はい。金村さんですか」と迷うことなく即答した。<br />
さらに、慌てた原が「何勝したんだ?」と聞くと「300何勝ですよね」と答えた。原は金田・広岡に対して「すいません。教育し直します」と平謝りし、金田自身も苦笑したが、広岡が激怒し「世代の違いで済まされる問題じゃない。歴史に対する不勉強にも程がある。過去に立派な人がいて巨人軍は発展してきた。先輩に対する敬意と理解を深めなければならない。君たちは素晴らしい球団に入った。彼らの功績があって今日がある。君たちには先輩からアドバイスを聞く権利があるし、先輩が後輩を指導するのは義務なんだ」と若手選手を叱責する事態となった（あまりの広岡の激高ぶりに、金田がルーキー辻内を「杉内」と言い間違えて事態を収拾させている）。<br />
内海哲也はこの一件について、練習後に報道陣に対して「最初に名前を間違えた後、頭が真っ白になって&hellip;あとは何言ったのか、全然覚えてないんです」と答え、巨人軍OB名簿を入手して永久欠番選手の顔と名前などを学習したという。その後、2008年12月に行った結婚披露宴では、金田はビデオメッセージで「名球会で待ってるぞ｣とコメントした。 同年2月21日、木の花ドームでの練習中に原がベンチ前で評論家の杉下茂、小松辰雄と談笑していた時、再びたまたま通り掛かった内海哲也に対して「この方はどなただ?」と聞くが、2人の名前を答えられなかった。杉下は「知らなくても仕方ない。まあ、いいんじゃないの」と一笑に付したが、小松は「同じ北陸にいたのに（内海哲也は京都府城陽市出身で、北陸にいたのは敦賀気比高校時代の3年間のみ。福井県でも敦賀市以南は近畿に分類されたりもする）名前も知らないのか。評論家の名鑑でも見せないといかんな」とお冠だった。<br />
左のエースとして申し分ない成績を残しているが、尊敬している先輩の高橋尚成がいるからか、内海哲也本人は一貫として「エースの自覚はない」と謙虚なコメントを言っている。<br />
グローブには「家族」と刺繍を入れている。あえて名前を入れずに、「家族」と入れたのは家族を守っていく、また家族からも支えてもらいたいと言う意味からで、家族には親も含まれているという。内海哲也自身も2007年6月に入籍し、1児の父親でもある。<br />
2007年シーズン終了後グライシンガーの巨人入団について、あるイベントで内海哲也は「補強するお金があるなら投手陣に回してほしい。僕ら3人（ローテーションを投げぬき2桁勝利を挙げた内海、高橋、木佐貫）は精一杯やったし、他のみんなもそう」と、球団の相次ぐ補強に物申した。こうした補強に対する反発・苦言とも取れる発言が公になることは全球団見回してももちろんほとんどない。この発言の後に内海哲也は球団から厳重注意を受け、さらに公式サイトが予告もなしに閉鎖され、「球団批判に対する制裁行為」との批判がファンから上がっている。<br />
登板時のBGMはカリートの『GO!GO!カリート』。<br />
ペンも左手で書く。]]>
    </description>
    <category>内海哲也</category>
    <link>http://yomiurigiants.blog.shinobi.jp/%E5%86%85%E6%B5%B7%E5%93%B2%E4%B9%9F/%E5%86%85%E6%B5%B7%E5%93%B2%E4%B9%9F</link>
    <pubDate>Thu, 03 Sep 2009 14:49:58 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">yomiurigiants.blog.shinobi.jp://entry/5</guid>
  </item>
    <item>
    <title>坂本勇人</title>
    <description>
    <![CDATA[<font size="3"><strong>坂本勇人について</strong></font><br />
坂本勇人（さかもとはやと）<br />
1988年12月14日生まれ。<br />
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手（内野手）。<br />
<br />
<a href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465" target="_blank"><img width="150" height="150" border="0" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/sakamoto_hayato/sakamoto_hayato.jpg" alt="坂本勇人画像" /></a><br />
<br />
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<br />
<font size="3"><strong>坂本勇人プロ入り前</strong></font><br />
昆陽里小学校1年から、少年野球「昆陽里タイガース」において投手兼遊撃手として野球を始めた。田中将大とは小・中学校の同級生で、小学校時代は同じ野球チームだった。<br />
当時は坂本勇人が投手、田中が捕手でバッテリーを組んでいた。松崎中時代は伊丹シニアに所属。<br />
高校は青森の光星学院に野球留学した。1年秋から遊撃のレギュラー、2年春から4番をつとめた。2年秋の東北大会準優勝で3年春のセンバツに出場。春の東北大会では16打数13安打で打率.813、4本塁打をあげて注目を集めた。高校通算39本塁打。<br />
2006年9月25日に行われた高校生ドラフトで堂上直倫（現中日ドラゴンズ）の抽選に外れた巨人より1位指名を受ける。11月5日に契約金8000万、年俸650万で仮契約。  <br />
<br />
<font size="3"><strong>坂本勇人坂本勇人プロ入り後</strong></font><br />
<strong>2007年</strong><br />
開幕二軍で迎えたが、イースタン・リーグにおいて田中大二郎と共に出場機会を与えられた。途中実母の死去などによる欠場があったものの、フレッシュ・オールスター前までのシーズン前半の60試合で、田中、円谷英俊につぐ54試合に出場した。9月6日には1軍の対中日ドラゴンズ戦で初安打初打点を記録（決勝点でもあった）。 <br />
<br />
<strong>2008年</strong><br />
キャンプからオープン戦では原辰徳監督などから急成長を認められ、キャンプ・オープン戦で遊撃手・二塁手として出場。オープン戦チーム打率が.208に沈むなかで打率.240を記録、また2本に終わったチーム本塁打のうちの1本を放ち、既定打席に到達。開幕直前に正遊撃手二岡智宏が復帰したものの、打撃面の期待、短期間で二塁守備にも順応したこと、開幕投手が左投手の石川雅規だったことなど条件が重なり、巨人では松井秀喜以来となる10代での開幕スタメンに8番・二塁での起用が確定した。<br />
その後も木村拓也・脇谷亮太などと併用されると思われたが、開幕戦で二岡が負傷。以降遊撃手としてスタメン出場を続けた。高校卒業で入団2年目の選手による全試合スタメン出場は、中西太、清原和博に続いて3人目（セリーグでは初）。<br />
2008年のオールスターゲームファン投票でセの遊撃手部門で1位になり、初出場した。  <br />
<br />
<font size="3"><strong>坂本勇人のプレースタイル</strong></font><br />
ヘルメットを振り落とすほどのフルスイングが代名詞で、バットコントロールも巧み、本塁打を打てる強打者。スイングスピードも球界トップレベル。<br />
スイングは目には単に強振しているように見えてもその実非常に高度なものであり、長打は広角に打てるほか高い打率をも両立させる柔軟性がある。<br />
守備や走塁でも全力プレーを心がける「ガッツ」という愛称通りの選手。<br />
2番を打っていた時期もあるがバントは行なわなかった。その当時は「史上最強の2番打者」と称されていた。<br />
ホームランと自分でもわかる打球を打つと、打った直後に飛び跳ねて歩くくせがあるように思われている。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>坂本勇人のプレースタイル</strong></font><br />
足を高く上げるフォームから、広角に打ち分ける強い打球が特徴。高校3年になってから急成長した選手で、将来の主軸候補として、また正ショート二岡智宏の後継者としての成長が期待されている。<br />
本来左利き（ペンも箸も左）だが、幼少時に兄のお下がりである右利き用グラブを使い続けていた為、右投げ右打ちになった。外角の球でタイミングを外されても前足（利き足）で踏ん張り、腕一本でボールに食らい付く。追い込まれてから石井一久の厳しい内角のカットボールをスタンドに運んだかと思うと、打ち頃の球をあっさりと打ち上げてしまうような面もある。<br />
左打者のような一塁側にもたれかかるような動きが無く、強いリストで打球をはじき返すためか、打球の軌道は中長距離打者を期待させる弾道を描く。練習試合を一見した長嶋茂雄に「試合に出場して『体のバネ』をつけ、前田智徳（広島）のような打者になってほしい」との言葉を贈られた。<br />
原監督には右のスラッガーとして期待されており、いわゆる「大きく育てる打撃」と、ベンチ主導のバントの二者択一となっている。開幕当初のバント技術は高いとはいえなかったが、西山バッテリーコーチの指導で改善された。<br />
遊撃守備に関しては、捕殺、刺殺は両方ともかなり多く守備範囲は広い。しかし、三遊間の打球を取った後の送球等不安定な部分も多く、失策の多さも目立つ。しかし、これらの点もまだまだ十分に改善する可能性を秘めており、打撃だけでなく守備もこれからの成長を期待されている。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>坂本勇人のエピソード</strong></font><br />
背番号の「61」は200「6」年の高校生ドラフト「1」位に由来する。<br />
スタメン獲得時19歳という若さから一部マスコミにも取り上げられ、時には週刊誌の表紙を飾るなど期待を受けている。こうした注目もあって、開幕前後に日本テレビ久保伸太郎社長が「（視聴率対策に）坂本を使い続けて欲しい」とインタビューに答えたほど。<br />
2008年に巨人がリーグ優勝しビールかけを行ったが、まだ未成年者の坂本は&times;印のついたマスクと「ビールをかけないでください」と書かれたタスキをつけて登場。ビールの代わりに炭酸水を浴びて優勝を喜んだ。]]>
    </description>
    <category>坂本勇人</category>
    <link>http://yomiurigiants.blog.shinobi.jp/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%8B%87%E4%BA%BA/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%8B%87%E4%BA%BA</link>
    <pubDate>Sun, 09 Aug 2009 08:37:25 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>小笠原道大</title>
    <description>
    <![CDATA[<font size="3"><strong>小笠原道大について</strong></font><br />
小笠原道大（おがさわらみちひろ）<br />
1973年10月25日生まれ。。<br />
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手（内野手）。愛称は「ガッツ」。<br />
<br />
<a href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465" target="_blank"><img width="150" height="150" border="0" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/ogasawara_michihiro/ogasawara_michihiro.jpg" alt="小笠原道大画像" /></a><br />
<br />
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</script> <br />
<br />
<font size="3"><strong>小笠原道大プロ入り前</strong></font><br />
7歳で野球を始め、千葉西リトルリーグに所属。<br />
1989年に暁星国際高等学校に進学。それまでのポジションは遊撃手・三塁手・外野手の併用であったが、チーム事情で二塁手にコンバートされる。翌 1990年にチーム事情から捕手にコンバート。高校2年時は夏の県大会準優勝。ちなみに、今でこそ球界屈指の強打者として知られるが、高校通算本塁打数は 0であった。<br />
NTT関東に入社後は立石尚行とバッテリーを組んで活躍した。1996年、都市対抗野球で立石と共に新日鐵君津の補強選手となり、松中信彦と共にクリーンアップを組んで活躍、ベスト8入りに貢献。<br />
この年のドラフトで日本ハムファイターズから3位指名される。入団会見では「首位打者を取れる様な打者になりたい」と宣言。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>小笠原道大日本ハムファイターズ時代</strong></font><br />
1997年中堅手以外のポジション全てを守れる事から「コンビニルーキー」と称される。球団も広瀬哲朗の後釜として期待していたらしい。またルーキー年にも関わらず、いきなりキャンプで落合博満とキャッチボールをする（このことが後年のFA宣言においての「落合との師弟関係」の報道に発展する。小笠原道大はその事について「誰も落合さんとキャッチボールをする相手がいなかったので、同じく余っていた僕が呼ばれた」と後に語っている）。同年、開幕一軍を果たし、加藤英司打撃コーチの薫陶を受ける。内野手登録だったものの23試合で捕手としてスタメンマスクをかぶる。<br />
<br />
1999年落合の引退でファーストにコンバートされると、「バントをしない2番打者」として開幕からレギュラーに定着しブレイクした。松坂大輔のプロ初登板初先発の試合では8回に松坂のプロ初失点初被弾となるツーランを浴びせた。<br />
<br />
2000年、2001年と2年連続で最多安打のタイトルを獲得。2001年には盗塁もこの年リーグ3位の24盗塁を記録。トリプルスリーにあと6盗塁と迫った。2001年に記録した195安打はシーズン安打数両リーグで歴代4位である（2007年にアレックス・ラミレスが204安打を達成するまでは3位であった）。そしてイチロー以来の史上2人目となる複数年での180安打以上も記録し、この2年間は月間MVPを2年連続で受賞。更にチームが最下位に終わる中、カブレラ、松中らを抑え激戦と言われたベストナイン一塁手部門も受賞。加えて2001年には歴代3位タイとなるシーズン猛打賞23回を記録する。 <br />
<br />
2002年すでにリーグのみならず球界を代表する打者となっていたが、FAで阪神へ移籍した片岡篤史が抜けた打線の柱として3番に定着。打率.340で、小笠原道大自身初の首位打者を獲得。しかし、前年まで3年連続で記録したフル出場が故障のため途絶え、この年からやや故障に苦しむようになった。<br />
<br />
2003年三塁手不在のチーム事情と自身の意向から三塁手に転向。打率.360というハイアベレージで2年連続の首位打者を獲得。最高出塁率（パリーグ歴代3位）のタイトルも獲得。また2000年から4年連続で「3割・30本塁打」を達成。日本を代表する3番打者となった。<br />
<br />
2004年7月24日、社会人野球出身のプロ選手では史上最速で通算1000本安打を達成する。<br />
7月、月間MVPを初受賞。<br />
アテネ五輪代表として招集された影響（出場試合の少なさ）や骨折による離脱で本塁打・打点は規定打席到達年で過去最低を記録。しかし打率は.345で5年連続3割を達成。<br />
<br />
2005年、自己最高の37本塁打を記録したが、前半戦、特に交流戦での大不振が響き6年ぶりに打率3割を下回った（.282）。三振も自己最多の114三振を記録してしまい苦しんだシーズンとなった。<br />
<br />
2006年、WBCの日本代表に選出。国内試合で日本代表チーム初本塁打を放ち、決勝のキューバ戦では押し出し四球や犠牲フライでチーム最多の1試合3打点を挙げ、チームの優勝に貢献した。<br />
5月15日、FA権を取得。<br />
日本ハム、前身の東映以来44年ぶりの日本一。個人成績でも32本塁打、100打点で本塁打・打点の二冠王ならびに小笠原道大自身初のパ・リーグMVPにも輝いた。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>小笠原道大読売ジャイアンツ時代</strong></font><br />
2006年11月5日、FA宣言。読売ジャイアンツへ移籍。背番号は日本ハム時代と同じ2。守備位置は再び三塁にコンバートされた。また、李承ヨプの不振によるレギュラー降格により、一塁を守ることもある。<br />
<br />
2007年5月28日、オリックス・バファローズ戦において自身初の1試合3本塁打を記録。<br />
7月24日より、ジャイアンツ第73代四番打者となる。<br />
9月15日、史上4番目の速さで通算1500本安打達成。<br />
11月20日、チームの5年ぶりのリーグ優勝に貢献したことが評価され日本ハム時代の前年に続いての2年連続MVPを獲得。なお、両リーグでのMVP受賞は江夏豊以来2人目（野手では史上初）、複数球団での受賞は江夏豊、工藤公康に次ぎ3人目（野手では史上初）、リーグを跨いでの2年連続受賞は史上初である（もちろん2球団跨いでの連続受賞も初）。<br />
<br />
2008年6月8日埼玉西武ライオンズ戦で自身初の送りバントを成功させた。<br />
9月3日 京セラドームでの対広島東洋カープ戦で史上62人目（史上66度目、球団史上5人目）のサイクルヒットを達成した。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>小笠原道大のプレースタイル</strong></font><br />
ヘルメットを振り落とすほどのフルスイングが代名詞で、バットコントロールも巧み、本塁打を打てる強打者。スイングスピードも球界トップレベル。<br />
スイングは目には単に強振しているように見えてもその実非常に高度なものであり、長打は広角に打てるほか高い打率をも両立させる柔軟性がある。<br />
守備や走塁でも全力プレーを心がける「ガッツ」という愛称通りの選手。<br />
2番を打っていた時期もあるがバントは行なわなかった。その当時は「史上最強の2番打者」と称されていた。<br />
ホームランと自分でもわかる打球を打つと、打った直後に飛び跳ねて歩くくせがあるように思われている。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>小笠原道大のプレースタイル</strong></font><br />
バッティングフォームについて問われると「自分の中では変えているつもりは無い」と言うものの、ブレイクした1999年時より腕の位置は高くなり（2000年以降）、バットの角度はつま先と平行になる（2002年以降）など複数の変化を遂げている。<br />
<br />
打撃だけでなく、守備でもダイナミックなダイビングキャッチを見せファンを沸かせる。一塁守備は球界屈指の名手である。2007年はコンバートされた為、三塁での出場となったが、一塁へのスローイングを解説席の星野仙一に「肩の弱い選手の投げ方の見本」と絶賛された。本人曰く、一塁守備の方が楽だが、手術した膝への負担は三塁守備のほうが少ないという。<br />
<br />
強打者の証として、2007年まで公式戦で送りバントの記録が一度もないことがあげられる（ただし1997年～1999年に7度犠打の指示が出たが失敗しており、正確には「送りバントを試みたことがない」のではなく「打撃技術の向上に伴い、そのまましなくなった」と言った方が正しい）。ちなみに2006年のWBCでは送りバントを試み、成功させた。2006年のオフ時の巨人移籍後は、バントを要求されるケースは多くなったが、依然として記録はつかなかった。2007 年9月1日には、8年ぶりにバントを試み、成功させたが、自身も一塁でセーフとなったので記録は安打となった。しかし2008年6月8日の西武戦でプロ入り初の送りバントを成功させた。]]>
    </description>
    <category>小笠原道大</category>
    <link>http://yomiurigiants.blog.shinobi.jp/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%A4%A7/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%A4%A7</link>
    <pubDate>Wed, 29 Jul 2009 14:09:57 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>阿部慎之助</title>
    <description>
    <![CDATA[<font size="3"><strong>阿部慎之助について</strong></font><br />
阿部慎之助（あべしんのすけ）<br />
1979年3月20日生まれ。<br />
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手（捕手）。<br />
<br />
<a href="http://ranking.with2.net/link.cgi?77465" target="_blank"><img width="150" height="150" border="0" src="http://imgimgimg.chicappa.jp/img3/abe_shinnosuke/abe_shinnosuke.jpg" alt="阿部慎之助画像" /></a> <br />
<br />
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<br />
<font size="3"><strong>阿部慎之助プロ入り前</strong></font><br />
安田学園では高校通算38本塁打。2000年9月、中央大学在学中にシドニーオリンピック野球日本代表に選ばれる。シドニーオリンピック野球日本代表監督大田垣耕造は、阿部の父親とは旧知の間柄であり、招集に前後して阿部が挨拶に訪れた際に、その事を話し「阿部って、あの阿部の子かぁ！」と驚かれた。<br />
2000年11月のドラフト会議において、ドラフト1位（逆指名）で巨人に入団。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>阿部慎之助経歴</strong></font><br />
<strong>2001年</strong><br />
読売ジャイアンツでは山倉和博以来23年ぶりの新人捕手開幕スタメンとして出場しその試合で初打席初安打初打点を含む4打点をあげる。最終的に打撃ではシーズン13本塁打をあげる。新人捕手のシーズン2桁本塁打は田淵幸一以来2人目の記録であった。しかし規定打席には1打席不足した。守備はプロの捕手としては物足りない面が見られたが、当時の巨人で村田真一に代わる正捕手の育成が急務だった事もあり長嶋監督は起用を続け、プロ野球捕手としての経験を重ねる。<br />
<br />
<strong>2002年</strong><br />
原辰徳監督の元、前年の経験を生かし攻守にわたって日本一の立役者の一人となり、ベストナインとゴールデングラブ賞を獲得するなど守備でも高い評価を受ける。シーズン後半から高橋由伸の故障に伴い3番打者に抜擢され、8月の3度を含む4度のサヨナラ打を打ち、「サヨナラ慎ちゃん」と呼ばれる契機となった。この年阿部慎之助が規定打席数に到達したことで、巨人としては1987年山倉和博以来の捕手による規定打席に到達した。 <br />
<br />
<strong>2003年</strong><br />
シーズン半ばでの故障もあり94試合の出場に留まる。故障前までの打撃は好調で規定打席には不足したものの打率.303を記録する。 <br />
<br />
<strong>2004年</strong><br />
開幕から本塁打を量産し4月中に16本を放ち、5月12日には世界記録に並ぶ「開幕33試合目での20本塁打」を記録する。この後ペースは失速し5月後半・6・7月はそれぞれ2本ずつに留まり、8月には故障もあって、最終的には33本塁打にとどまる。それでもシーズンで33本塁打は巨人所属捕手としては史上初めて30本塁打を越えた成績であり、月間16本塁打は、王貞治のそれまでの球団記録を更新し、1981年の門田博光（南海）、1994年の江藤智（広島）と並んだ日本タイ記録である。規定打席に到達した上で初めて打率3割も記録した。11月には日米野球に捕手・代打で全8試合中、6試合に出場したが、13打席11打数0安打2四球という結果だった。<br />
<br />
<strong>2005年</strong><br />
前年から引き続いて故障に苦しみ、特に右肩を故障した影響がスローイングに現れ盗塁阻止率が極端に低下した。打撃は好調でシーズンを通じて5番打者に定着し最終的に打率は3割を越え、出塁率と得点圏打率はチームトップの成績であった。8月23日横浜戦では、プロ入り後初めて一塁手として出場。右肩痛で捕手としての守備は難しいものの、巨人の攻撃の中心となっていたため守備の負担が少ない一塁手として出場させた。 <br />
<br />
<strong>2006年</strong><br />
ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出されたが、前年からの故障があり出場を辞退。コンバート問題は原監督が捕手として起用することを明言し、本人も捕手継続を希望したことで解消された。シーズンでは打率が4年ぶりに3割を割り、本塁打も自己最低の10本に終わった。捕手としては自身過去最高の盗塁阻止率.443を記録。 <br />
<br />
<strong>2007年</strong><br />
この年からチームの主将に任命される。9月25日には33号ホームランを放ち、自身初のシーズン100打点達成。捕手登録選手のシーズン100打点達成はプロ史上4人目。またセリーグでは大洋ホエールズの門前真佐人以来2人目で57年ぶりの記録。守備面ではチームの失点率をリーグ最優秀にまとめた。 2008年に行われる北京オリンピックの野球日本代表予選3試合に出場して13打数10安打4打点、打率.769の結果を残し、首位打者で最優秀打者賞・ MVPを獲得。<br />
<br />
<font size="3"><strong>阿部慎之助プレースタイル</strong></font><br />
強肩強打を特徴とする捕手。もともとは安定した打棒を誇る中距離打者で、かつては鋭い回転からの天才的な内角打ちをチーム内外から絶賛された。近年はやや窮屈な構え（神主打法）からの意外性あふれる長打を持ち味としている。<br />
<br />
二塁へ送球するための所要時間も短く、素早い。鈍足だがフィールディングは俊敏。<br />
捕手ながら他チームの4番に匹敵するHR数を記録する年もある。<br />
<br />
マスコミ、インターネットなどでのリードの「評判」は12球団最低クラスとされる。そのため、野手転向希望論が絶えないが、知野球派の中ではリードにも一定の評判を得ており、捕球力に若干の難があるが、投手との相性やリードには大きな問題はないといわれることが多い。<br />
<br />
他球団から移籍した投手が、元の球団に在籍した最後の年よりも勝ち星数や防御率などの成績を落とす場合が多いことも、「評判」を落とす裏付けとなっている。<br />
<br />
0年代の広島の正捕手達川光男は入団当初からそれほど阿部慎之助のリードは悪くないと評していた（ただし「阿部慎之助の要求どおりに放れる投手は巨人には少ない」と解説しており、実際入団当時は選手の能力や調子・失投などを無視した面があった）。<br />
<br />
西武・巨人でキャッチャーを務めた大久保博元は、ニッポン放送の解説で阿部慎之助のリードを高く評価することが多い。また、西武打撃コーチになっても、対戦したときに高く評価していた。<br />
<br />
ただし、2008年は実際に個々の調子・能力などを計算に入れていないような、前年までなかったような稚拙な配球を指摘されている。これはバッテリーコーチが長年の師といえる村田真一から、90年代の広島の投手陣とバッテリーを組んでいた西山秀二に交替したため、前年までの実績を生かしつつ、西山の教えを消化するに至っていないためと思われる。チーム順位1位・失点率1位だった年のバッテリーコーチだったことや、先発投手防御率などから村田真一元バッテリーコーチとの相性を指摘されることは多かった。また、現役捕手ながら阿部に捕手技術を伝授しているといわれ、阿部の信頼も厚いとされる村田善則が、同じく捕手の加藤健の台頭や、鶴岡一成の入団によって１軍から遠ざかり、簡単に頼れない、相談できないことも１つの要因とされることもある。 <br />
<br />
<font size="3"><strong>阿部慎之助のエピソード</strong></font><br />
名前の由来は、母親が池畑慎之介のファンだったことから。<br />
<br />
ひょうきんな性格からコミカルな面もみせており、松山千春などのモノマネをすることでも有名である。掛布のものまねもテレビで披露している。野球選手の形態模写も得意。<br />
<br />
地元出身で父の高校時代の同級生でもあるミスタータイガース掛布雅之が少年時代の憧れ。左打ちも掛布の影響である。父親は習志野高校時代、掛布を差し置いて4番を打っていた（掛布は3番）。また巨人の生え抜き捕手としては森祇晶以来の右投左打である。<br />
<br />
子供の頃のポジションはサードだったが、現役時代捕手だった父親の指示で捕手にコンバート。高校から捕手に専念するようになり、今では「（試合中常に考え続ける）捕手以外のポジションだと&ldquo;間&rdquo;が開き過ぎて打撃にも影響が出る」と語っている。<br />
<br />
入団当時、目標とする選手は「古田敦也捕手です」と答えたが、後に同じ質問に「打てて守れる捕手です」と答えるようになった。 2005年に日本ハムOBと巨人OBの試合で9回に代打で登場し、同点ホームランも放っている（試合は9回引き分け）。<br />
<br />
一年目の2001年、実績を無視して正捕手として長嶋監督が出場させ続けた。この年は守備時に打者の打球が股間にあたったり、三塁への送球をかなり逸らしたり、デッドボールで両軍ベンチの選手が出てきてしまったりした（阿部慎之助本人は素直に一塁に行こうとしたが）事などオフの「珍プレー」に取上げられるようなプレーも多かったが、2年目以降、原監督のもとで日本一の正捕手として開花につながった。<br />
<br />
サヨナラ打などで活躍した後のお立ち台で「最高でーす」と言う。2006年からはファンと一緒になって「最高、最高、最高でーす」と言うことになったが、2006年は一度も披露されずに終わった。<br />
<br />
2007年シーズンでは韓国語で最高の意味の「????（チェゴンニダ）」を言う事になったが、これは李承燁がお立ち台で「最高です」と日本語で言うのに対して「それなら自分は韓国語で言おう」ということからなったものであるが、一度きりしか言ってない。2007年に入り、「最高でーす」に併せて「どんだけぇー」とも言う場面が増えた。<br />
<br />
2007年8月18日の巨人対ヤクルト戦において、同日放送していた24時間テレビの企画で阿部慎之助のファンの身体障害者の少年に、ホームランをプレゼントする約束をしていたが結局その日は打てなかった。「明日は打ちます」と言った翌日、サヨナラ満塁本塁打を放った。<br />
<br />
打席に入る時のBGMは2006年はMINMIの『FRIENDS』だった。2007年からは以前使用していたアース・ウィンド・アンド・ファイアーの『セプテンバー』に戻している。<br />
<br />
野球漫画『おおきく振りかぶって』の登場人物である阿部隆也は、構想当初は、阿部「伸之介」という同音名であったが、この後に巨人に阿部が入団することとなり、混同を避けるため名前を「隆也」に変更している（なお、作者のこの名前案は阿部慎之助が高校野球の公式戦に出場する何年も前からあったもので、モデル等になっているわけではない）。<br />
<br />
「ズームイン!!サタデー」内のスポーツコーナーでチーム内の中央大学OBの堀田一郎（現2軍マネージャー）、亀井義行の3人で「中3トリオ」を結成。阿部は「二男」という位置づけとなっている。<br />
<br />
中央大学は卒業しておらず中退であり、最終学歴は安田学園高校卒業。大学野球界においては、このようなケースは珍しいことではなく、卒業に準じた修了として扱われている。<br />
<br />
2008年シーズンから、応援歌が新しいものに変わった。<br />
<br />
オリンピック競技としての野球は、北京五輪で終了とされており、予選にアマチュアで出場していた楽天長谷部康平がプロ入りしたため、日本ではアマチュア最後のオリンピック出場者となる予定。<br />
<br />
北京五輪野球日本代表監督星野仙一が、ゲーム中の解説で発言したとおりバッティング重視だった選手がリード面で成長し、自らの目標である打って守れる選手も自他共に認めるところとなっている。<br />
<br />
城島健司のメジャー移籍や古田敦也・伊東勤の引退、谷繁元信の高年齢化に伴い日本の正捕手として相川亮二、里崎智也とともに台頭しつつある。<br />
<br />
天才バカボンのウナギイヌに顔が似てるといわれる。もともとはアンチ巨人が冷やかしでつけたあだ名だが、巨人ファンも「確かに似ている」と言うほどであった。]]>
    </description>
    <category>阿部慎之助</category>
    <link>http://yomiurigiants.blog.shinobi.jp/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%85%8E%E4%B9%8B%E5%8A%A9/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%85%8E%E4%B9%8B%E5%8A%A9</link>
    <pubDate>Sun, 26 Jul 2009 10:29:13 GMT</pubDate>
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