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読売ジャイアンツファンのみなさんこんにちは!このサイトではプロ野球球団である読売ジャイアンツの選手のプロフィールや実績などを紹介しています。球団の簡単な概要なんかも掲載しています。
小笠原道大について
小笠原道大(おがさわらみちひろ)
1973年10月25日生まれ。。
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(内野手)。愛称は「ガッツ」。

小笠原道大プロ入り前
7歳で野球を始め、千葉西リトルリーグに所属。
1989年に暁星国際高等学校に進学。それまでのポジションは遊撃手・三塁手・外野手の併用であったが、チーム事情で二塁手にコンバートされる。翌 1990年にチーム事情から捕手にコンバート。高校2年時は夏の県大会準優勝。ちなみに、今でこそ球界屈指の強打者として知られるが、高校通算本塁打数は 0であった。
NTT関東に入社後は立石尚行とバッテリーを組んで活躍した。1996年、都市対抗野球で立石と共に新日鐵君津の補強選手となり、松中信彦と共にクリーンアップを組んで活躍、ベスト8入りに貢献。
この年のドラフトで日本ハムファイターズから3位指名される。入団会見では「首位打者を取れる様な打者になりたい」と宣言。
小笠原道大日本ハムファイターズ時代
1997年中堅手以外のポジション全てを守れる事から「コンビニルーキー」と称される。球団も広瀬哲朗の後釜として期待していたらしい。またルーキー年にも関わらず、いきなりキャンプで落合博満とキャッチボールをする(このことが後年のFA宣言においての「落合との師弟関係」の報道に発展する。小笠原道大はその事について「誰も落合さんとキャッチボールをする相手がいなかったので、同じく余っていた僕が呼ばれた」と後に語っている)。同年、開幕一軍を果たし、加藤英司打撃コーチの薫陶を受ける。内野手登録だったものの23試合で捕手としてスタメンマスクをかぶる。
1999年落合の引退でファーストにコンバートされると、「バントをしない2番打者」として開幕からレギュラーに定着しブレイクした。松坂大輔のプロ初登板初先発の試合では8回に松坂のプロ初失点初被弾となるツーランを浴びせた。
2000年、2001年と2年連続で最多安打のタイトルを獲得。2001年には盗塁もこの年リーグ3位の24盗塁を記録。トリプルスリーにあと6盗塁と迫った。2001年に記録した195安打はシーズン安打数両リーグで歴代4位である(2007年にアレックス・ラミレスが204安打を達成するまでは3位であった)。そしてイチロー以来の史上2人目となる複数年での180安打以上も記録し、この2年間は月間MVPを2年連続で受賞。更にチームが最下位に終わる中、カブレラ、松中らを抑え激戦と言われたベストナイン一塁手部門も受賞。加えて2001年には歴代3位タイとなるシーズン猛打賞23回を記録する。
2002年すでにリーグのみならず球界を代表する打者となっていたが、FAで阪神へ移籍した片岡篤史が抜けた打線の柱として3番に定着。打率.340で、小笠原道大自身初の首位打者を獲得。しかし、前年まで3年連続で記録したフル出場が故障のため途絶え、この年からやや故障に苦しむようになった。
2003年三塁手不在のチーム事情と自身の意向から三塁手に転向。打率.360というハイアベレージで2年連続の首位打者を獲得。最高出塁率(パリーグ歴代3位)のタイトルも獲得。また2000年から4年連続で「3割・30本塁打」を達成。日本を代表する3番打者となった。
2004年7月24日、社会人野球出身のプロ選手では史上最速で通算1000本安打を達成する。
7月、月間MVPを初受賞。
アテネ五輪代表として招集された影響(出場試合の少なさ)や骨折による離脱で本塁打・打点は規定打席到達年で過去最低を記録。しかし打率は.345で5年連続3割を達成。
2005年、自己最高の37本塁打を記録したが、前半戦、特に交流戦での大不振が響き6年ぶりに打率3割を下回った(.282)。三振も自己最多の114三振を記録してしまい苦しんだシーズンとなった。
2006年、WBCの日本代表に選出。国内試合で日本代表チーム初本塁打を放ち、決勝のキューバ戦では押し出し四球や犠牲フライでチーム最多の1試合3打点を挙げ、チームの優勝に貢献した。
5月15日、FA権を取得。
日本ハム、前身の東映以来44年ぶりの日本一。個人成績でも32本塁打、100打点で本塁打・打点の二冠王ならびに小笠原道大自身初のパ・リーグMVPにも輝いた。
小笠原道大読売ジャイアンツ時代
2006年11月5日、FA宣言。読売ジャイアンツへ移籍。背番号は日本ハム時代と同じ2。守備位置は再び三塁にコンバートされた。また、李承ヨプの不振によるレギュラー降格により、一塁を守ることもある。
2007年5月28日、オリックス・バファローズ戦において自身初の1試合3本塁打を記録。
7月24日より、ジャイアンツ第73代四番打者となる。
9月15日、史上4番目の速さで通算1500本安打達成。
11月20日、チームの5年ぶりのリーグ優勝に貢献したことが評価され日本ハム時代の前年に続いての2年連続MVPを獲得。なお、両リーグでのMVP受賞は江夏豊以来2人目(野手では史上初)、複数球団での受賞は江夏豊、工藤公康に次ぎ3人目(野手では史上初)、リーグを跨いでの2年連続受賞は史上初である(もちろん2球団跨いでの連続受賞も初)。
2008年6月8日埼玉西武ライオンズ戦で自身初の送りバントを成功させた。
9月3日 京セラドームでの対広島東洋カープ戦で史上62人目(史上66度目、球団史上5人目)のサイクルヒットを達成した。
小笠原道大のプレースタイル
ヘルメットを振り落とすほどのフルスイングが代名詞で、バットコントロールも巧み、本塁打を打てる強打者。スイングスピードも球界トップレベル。
スイングは目には単に強振しているように見えてもその実非常に高度なものであり、長打は広角に打てるほか高い打率をも両立させる柔軟性がある。
守備や走塁でも全力プレーを心がける「ガッツ」という愛称通りの選手。
2番を打っていた時期もあるがバントは行なわなかった。その当時は「史上最強の2番打者」と称されていた。
ホームランと自分でもわかる打球を打つと、打った直後に飛び跳ねて歩くくせがあるように思われている。
小笠原道大のプレースタイル
バッティングフォームについて問われると「自分の中では変えているつもりは無い」と言うものの、ブレイクした1999年時より腕の位置は高くなり(2000年以降)、バットの角度はつま先と平行になる(2002年以降)など複数の変化を遂げている。
打撃だけでなく、守備でもダイナミックなダイビングキャッチを見せファンを沸かせる。一塁守備は球界屈指の名手である。2007年はコンバートされた為、三塁での出場となったが、一塁へのスローイングを解説席の星野仙一に「肩の弱い選手の投げ方の見本」と絶賛された。本人曰く、一塁守備の方が楽だが、手術した膝への負担は三塁守備のほうが少ないという。
強打者の証として、2007年まで公式戦で送りバントの記録が一度もないことがあげられる(ただし1997年~1999年に7度犠打の指示が出たが失敗しており、正確には「送りバントを試みたことがない」のではなく「打撃技術の向上に伴い、そのまましなくなった」と言った方が正しい)。ちなみに2006年のWBCでは送りバントを試み、成功させた。2006年のオフ時の巨人移籍後は、バントを要求されるケースは多くなったが、依然として記録はつかなかった。2007 年9月1日には、8年ぶりにバントを試み、成功させたが、自身も一塁でセーフとなったので記録は安打となった。しかし2008年6月8日の西武戦でプロ入り初の送りバントを成功させた。
小笠原道大(おがさわらみちひろ)
1973年10月25日生まれ。。
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(内野手)。愛称は「ガッツ」。

小笠原道大プロ入り前
7歳で野球を始め、千葉西リトルリーグに所属。
1989年に暁星国際高等学校に進学。それまでのポジションは遊撃手・三塁手・外野手の併用であったが、チーム事情で二塁手にコンバートされる。翌 1990年にチーム事情から捕手にコンバート。高校2年時は夏の県大会準優勝。ちなみに、今でこそ球界屈指の強打者として知られるが、高校通算本塁打数は 0であった。
NTT関東に入社後は立石尚行とバッテリーを組んで活躍した。1996年、都市対抗野球で立石と共に新日鐵君津の補強選手となり、松中信彦と共にクリーンアップを組んで活躍、ベスト8入りに貢献。
この年のドラフトで日本ハムファイターズから3位指名される。入団会見では「首位打者を取れる様な打者になりたい」と宣言。
小笠原道大日本ハムファイターズ時代
1997年中堅手以外のポジション全てを守れる事から「コンビニルーキー」と称される。球団も広瀬哲朗の後釜として期待していたらしい。またルーキー年にも関わらず、いきなりキャンプで落合博満とキャッチボールをする(このことが後年のFA宣言においての「落合との師弟関係」の報道に発展する。小笠原道大はその事について「誰も落合さんとキャッチボールをする相手がいなかったので、同じく余っていた僕が呼ばれた」と後に語っている)。同年、開幕一軍を果たし、加藤英司打撃コーチの薫陶を受ける。内野手登録だったものの23試合で捕手としてスタメンマスクをかぶる。
1999年落合の引退でファーストにコンバートされると、「バントをしない2番打者」として開幕からレギュラーに定着しブレイクした。松坂大輔のプロ初登板初先発の試合では8回に松坂のプロ初失点初被弾となるツーランを浴びせた。
2000年、2001年と2年連続で最多安打のタイトルを獲得。2001年には盗塁もこの年リーグ3位の24盗塁を記録。トリプルスリーにあと6盗塁と迫った。2001年に記録した195安打はシーズン安打数両リーグで歴代4位である(2007年にアレックス・ラミレスが204安打を達成するまでは3位であった)。そしてイチロー以来の史上2人目となる複数年での180安打以上も記録し、この2年間は月間MVPを2年連続で受賞。更にチームが最下位に終わる中、カブレラ、松中らを抑え激戦と言われたベストナイン一塁手部門も受賞。加えて2001年には歴代3位タイとなるシーズン猛打賞23回を記録する。
2002年すでにリーグのみならず球界を代表する打者となっていたが、FAで阪神へ移籍した片岡篤史が抜けた打線の柱として3番に定着。打率.340で、小笠原道大自身初の首位打者を獲得。しかし、前年まで3年連続で記録したフル出場が故障のため途絶え、この年からやや故障に苦しむようになった。
2003年三塁手不在のチーム事情と自身の意向から三塁手に転向。打率.360というハイアベレージで2年連続の首位打者を獲得。最高出塁率(パリーグ歴代3位)のタイトルも獲得。また2000年から4年連続で「3割・30本塁打」を達成。日本を代表する3番打者となった。
2004年7月24日、社会人野球出身のプロ選手では史上最速で通算1000本安打を達成する。
7月、月間MVPを初受賞。
アテネ五輪代表として招集された影響(出場試合の少なさ)や骨折による離脱で本塁打・打点は規定打席到達年で過去最低を記録。しかし打率は.345で5年連続3割を達成。
2005年、自己最高の37本塁打を記録したが、前半戦、特に交流戦での大不振が響き6年ぶりに打率3割を下回った(.282)。三振も自己最多の114三振を記録してしまい苦しんだシーズンとなった。
2006年、WBCの日本代表に選出。国内試合で日本代表チーム初本塁打を放ち、決勝のキューバ戦では押し出し四球や犠牲フライでチーム最多の1試合3打点を挙げ、チームの優勝に貢献した。
5月15日、FA権を取得。
日本ハム、前身の東映以来44年ぶりの日本一。個人成績でも32本塁打、100打点で本塁打・打点の二冠王ならびに小笠原道大自身初のパ・リーグMVPにも輝いた。
小笠原道大読売ジャイアンツ時代
2006年11月5日、FA宣言。読売ジャイアンツへ移籍。背番号は日本ハム時代と同じ2。守備位置は再び三塁にコンバートされた。また、李承ヨプの不振によるレギュラー降格により、一塁を守ることもある。
2007年5月28日、オリックス・バファローズ戦において自身初の1試合3本塁打を記録。
7月24日より、ジャイアンツ第73代四番打者となる。
9月15日、史上4番目の速さで通算1500本安打達成。
11月20日、チームの5年ぶりのリーグ優勝に貢献したことが評価され日本ハム時代の前年に続いての2年連続MVPを獲得。なお、両リーグでのMVP受賞は江夏豊以来2人目(野手では史上初)、複数球団での受賞は江夏豊、工藤公康に次ぎ3人目(野手では史上初)、リーグを跨いでの2年連続受賞は史上初である(もちろん2球団跨いでの連続受賞も初)。
2008年6月8日埼玉西武ライオンズ戦で自身初の送りバントを成功させた。
9月3日 京セラドームでの対広島東洋カープ戦で史上62人目(史上66度目、球団史上5人目)のサイクルヒットを達成した。
小笠原道大のプレースタイル
ヘルメットを振り落とすほどのフルスイングが代名詞で、バットコントロールも巧み、本塁打を打てる強打者。スイングスピードも球界トップレベル。
スイングは目には単に強振しているように見えてもその実非常に高度なものであり、長打は広角に打てるほか高い打率をも両立させる柔軟性がある。
守備や走塁でも全力プレーを心がける「ガッツ」という愛称通りの選手。
2番を打っていた時期もあるがバントは行なわなかった。その当時は「史上最強の2番打者」と称されていた。
ホームランと自分でもわかる打球を打つと、打った直後に飛び跳ねて歩くくせがあるように思われている。
小笠原道大のプレースタイル
バッティングフォームについて問われると「自分の中では変えているつもりは無い」と言うものの、ブレイクした1999年時より腕の位置は高くなり(2000年以降)、バットの角度はつま先と平行になる(2002年以降)など複数の変化を遂げている。
打撃だけでなく、守備でもダイナミックなダイビングキャッチを見せファンを沸かせる。一塁守備は球界屈指の名手である。2007年はコンバートされた為、三塁での出場となったが、一塁へのスローイングを解説席の星野仙一に「肩の弱い選手の投げ方の見本」と絶賛された。本人曰く、一塁守備の方が楽だが、手術した膝への負担は三塁守備のほうが少ないという。
強打者の証として、2007年まで公式戦で送りバントの記録が一度もないことがあげられる(ただし1997年~1999年に7度犠打の指示が出たが失敗しており、正確には「送りバントを試みたことがない」のではなく「打撃技術の向上に伴い、そのまましなくなった」と言った方が正しい)。ちなみに2006年のWBCでは送りバントを試み、成功させた。2006年のオフ時の巨人移籍後は、バントを要求されるケースは多くなったが、依然として記録はつかなかった。2007 年9月1日には、8年ぶりにバントを試み、成功させたが、自身も一塁でセーフとなったので記録は安打となった。しかし2008年6月8日の西武戦でプロ入り初の送りバントを成功させた。
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